実は大阪の超難関の進学中学校・高校の出身なんです!
そんな秋野暢子さんの生い立ち・家族構成・学歴・デビューのキッカケをご紹介します。
秋野暢子のプロフィール
《秋野暢子のプロフィール》
本名:田代 暢子(たしろ ようこ)
生年月日:1957年1月18日
出生地:大阪府大阪市中央区
身長:170cm
血液型:A型
所属事務所:カフナロック
秋野暢子の出身地と実家の家族構成
画像引用:https://xn--zck9awe6dp62p112ag6bs07f5id.com/
1957年1月18日生まれ大阪市中央区出身の秋野暢子さん。
美男美女のご両親のもと、お母さんが40歳のときに生まれたのが暢子さんです。
自身のブログで姉妹はいないことは語られています。
しかし、兄、弟の有無は公表されていません。
秋野さんのご実家は大阪の呉服屋さんでした。
呉服屋さんの場所は心斎橋と船場の説がありますが特定はできませんでした。
いずれにしても秋野さんは大阪の一等地でお商売されている裕福な家庭に育ったようです。
3歳から水泳を習い始め、幼少時代の秋野さんは活発な女の子でした。
しかし、秋野暢子さんが4歳の頃に、ご家族に異変が起こってしまいます。
キッカケはお父さんが保証人になってしまったこと。
そのことがキッカケでご実家の呉服屋さんは全財産を失ってしまいます。
秋野さんが4歳の頃には家もとられてしまい、蔵のようなところに住んでいました。
そして借金の取り立てが家に押しかけてくる毎日。
その影響で秋野さんは対人恐怖症、声が出せない病気になってしまいました。
秋野暢子の出身小学校・中学校
秋野暢子さんが通っていた小学校は大阪市立弘治小学校です。
大阪市西成区にあった小学校で統廃合されて2015年に閉校してしまいました。
ご家族と暮らしていた蔵は、この西成区にあったのかもしれません。
西成区は大阪の下町で、ドヤ街などのあるディープなエリアです。
出身校の公表が中学校からなのもこのような理由からでしょうか。
小学校では、声を出すことができず、いじめられっ子だったようです。
出席をとるときの『はい』が言えない、休み時間も教室の隅にいる暗い子。
これが当時の同級生の秋野暢子さんに対する印象です。
そんな秋野さんが変わるキッカケとなったのは小学校5年生の時の学芸会。
『鉛筆の国』というお芝居での秋野さんの役は『鉛筆のF』でした。
『HB』や『2B』など他の鉛筆役に混じって唯一の台詞は『Fざんす!』。
秋元さんは『Fざんす!』を必死で練習しました。
しかし、その台詞がなかなか言葉に出ません…
発表の当日は吐き気と下痢と熱まで出た状況でした。
学校を休みたいと考えた秋野暢子さん。
しかし、勇気を振り絞り学芸会に挑みました。
本番では『Fざんす』が言え、観客や同級生から拍手喝采!
劇中では声を出せるようになったそうです。
小学校卒業後、秋野暢子さんは四天王寺中学に進学します。
四天王寺中学は大阪で最も難しい進学校として有名で偏差値は71~75です。
小学校の学芸会で達成感を覚えた秋野さんは、中学校で、演劇部に入部。
そして、対人恐怖症と声が出せない病気を克服しました。
秋野暢子の出身高校・大学と芸能界デビューのキッカケ
中高一貫であることより、秋野暢子さんは四天王寺高校に進学します。
四天王寺高校は、普通科の偏差値72、スポーツ・芸能科の偏差値は47の学校です。
高校に進学する頃の秋野さんの実家は経済的に裕福だったととはいえません。
そのため、中学生の時からタコ焼き屋やレストランでアルバイトをしました。
秋野暢子さんの芸能界デビューのキッカケは15歳のときのこと。
演劇部のコンクールがキッカケで放送作家にスカウトされます。
そして、エキストラでドラマに出演するようになりました。
たとえば『看護婦A』といった名前もない役です。
しかし、他のバイトよりも時給はよかったそうです。
秋野暢子さんがブレイクしたのは高校在学中の1974年のこと。
NHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』への出演をキッカケに活躍の場を広げます。
さらに1975年には朝ドラ『おはようさん』でヒロイン殿村鮎子役に抜擢!
秋野さんは吉永小百合の再来と騒がれるまでになりました。
大学進学は実家の経済事情で断念。
高校卒業後は上京して華やかな芸能生活をスタートされたのです。
まとめ
芯が強そうでハキハキと発言するイメージが強い秋野暢子さん。
小さい頃の壮絶な体験やいじめられた経験から抜け出した強さから出てくるものなんですね!
そして、秋野さんが人生を変えたキッカケは、学芸会当日に休まずに立ち向った小さな勇気。
少しのキッカケで人生は変えていけるのだと元気をいただきました!
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